キャラクターコラム特別編 ハサン・サッバーハコラム

ハサン・サッバーハ、あるいはハサン・ビン・サバーは、半伝説的なイスラム教の暗殺教団の指導者だ。『Fate』シリーズでは、暗殺教団の教主が代々同じ名前を名乗ったという独自設定を採用しているが、ここでは歴史上のハサン・サッバーハについて紹介する。
ハサン・サッバーハは現在のテヘランの南にあるシーア派の都市、クムの生まれである。レイ(後のテヘラン)において数学や天文学、そして魔術を学んだ彼は、この地でイスラム教シーア派の支派イスマーイール派の峻厳な教義に接し、その熱心な信徒となった。そして、同派の教主であるファーティマ朝のカリフに忠誠を誓い、エジプトのカイロにあったカリフの宮廷で研究活動を行っていた時期もある。
1090年、彼とその同志はイラン中西部のアルボルズ山中にあるアラムート城砦を奪取し、ここを拠点とする。そのため、アラムート派と呼ばれることもあるが、1094年のカリフ・ムスタンティルの死の際に廃嫡されたニザールを支持したことで、もっぱらニザール派と呼ばれた。イスマーイール派の厳格な信徒だったハサンは、共同体的な組織によって原始イスラム教の絶対性の復活を実現しようとした。その厳しさは家族にも向けられ、ワインを飲んだり、殺人の嫌疑をかけられたりした息子たちを彼は容赦なく処刑したという。
ニザール派は、他宗派との戦争において、暗殺という手段をしばしば用いた。そして彼らは、暗殺行為を正当化する目的で他宗派の有力者の暗殺を教義義へと昇華し、その技術を磨いていった。やがて彼らはイスマーイール派の要人や、彼らと友好関係にある人々の敵対者の暗殺にも手を染めるようになり、ニザール派は暗殺教団として恐れられるようになっていく。ハサンのはっきりした生年はわかっていないが、一説によれば彼が1124年に没した時、90歳だったという。アラムート占領から34年の間、彼が城の外に出たのは2回だけで、それも屋上に出たのみだと伝えられている。
彼の晩年から、ニザール派は独自国家の建設を目指し始めた。セルジューク朝の衰退もあって彼らの領地は拡大し、イランのクーインスタンやギルドクー、シリアのジャバール・バラーなど、個々の領地は離れていたが、アラムート城から布教者が派遣され、最高指導者のもとに統治された。モンゴル軍の来襲によって城砦が陥落するまでに八人の指導者が存在したが、ハサン・サッバーハ含む3人が「ハサン」の名を持ち、それぞれ教団に大きな変化を与えている。ハサン二世は、自ら全イスラム教徒の最高指導者たるカリフを名乗り、律法を廃止、ムハンマドすらも否定した。ハサン三世は逆に律法を復活させ、教団をスンニ派へと改宗させた。彼は正規軍を設立したが、暗殺は続けたようだ。
ところで、最初の頃はニザール派と敵対していたスンニ派の人々から、暗殺教団の人々はハシシという蔑称で呼ばれたという。ハシシというのは大麻のことで、後にニザール派の暗殺者に悩まされたモンゴルでも、教団が大麻を用いて若者を暗殺者に仕立てているという風説が流れたようだ。この「ハシシ」がヨーロッパに伝わり、暗殺者を意味する言葉になったというのが、「アサシン」という語の由来の有力説のひとつである。
なお、ヨーロッパにおいて、暗殺教団の教主は「山の老人」の異名で知られている。「山の老人」の噂はマルコ・ポーロの『東方見聞録』によりヨーロッパに紹介され、後にアレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』に取り上げられて、広く知られることとなったのである。ただし、実際に「山の老人」のモデルとなったのはハサンではなく、ハサン二世(前述)の薫陶を受け、シリアのニザール派の指導者となったラシード・ウッディーン・スィナーンだったようだ。